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廃線 | 鉄道めぐり旅 https://rail-road.sakura.ne.jp ~鉄道による旅や廃線めぐりの記録~ Wed, 04 May 2022 14:26:49 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.5.15 太宰府軌道(太宰府馬鉄)の机上調査 https://rail-road.sakura.ne.jp/%e5%a4%aa%e5%ae%b0%e5%ba%9c%e8%bb%8c%e9%81%93%ef%bc%88%e5%a4%aa%e5%ae%b0%e5%ba%9c%e9%a6%ac%e9%89%84%ef%bc%89%e3%81%ae%e6%9c%ba%e4%b8%8a%e8%aa%bf%e6%9f%bb/ Wed, 04 May 2022 14:25:41 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/?p=2506 【地図】

=駅跡(下町,中町,元下町,仮又は位置が不明なため不記載)

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柳川軌道 机上調査 https://rail-road.sakura.ne.jp/%e6%9f%b3%e5%b7%9d%e8%bb%8c%e9%81%93-%e5%8d%93%e4%b8%8a%e8%aa%bf%e6%9f%bb/ Sun, 01 May 2022 06:49:21 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/?p=2497 距離 駅名 開業年 備考 0.0km 矢部川 1918年以前 0.3km付近 矢部川(旧)
大竹昇降場 1911年~1918年
1918年~1920年         .
移設した跡地を利用? 1.1km 下ノ庄 1911年 下庄とも表記する 不明 瀬高橋 1918年~1920年 瀬高とも表記か? 2.1km 上ノ庄 1911年 上庄とも表記する 3.0km 鬼橋 1911年 御仁橋とも表記する 4.6km 三橋 1911年 5.4km 蒲船津 1911年 不明 船場昇降場 1918年以前 6.9km 柳河 1911年

地図帳には下庄が移設したと書いてあるが瀬高橋のことだと思われる
地図帳には矢部川駅が1924年度まで300m手前にあったと書いてあるが、大竹昇降場のことだと思われる
※営業廃止届出日から10日間は運転

 

【当時の運賃】
一區二銭
全線十二銭

 

【地図】

※瀬高橋・ 船場昇降場は位置が不明のため不記載

 

参考文献
九州鉄道旅行案内(1918)
最新福岡県管内軌道図(1920)
全日本運送業者名鑑(1929)
九州鉄道・柳河軌道・東肥鉄道から自動車輸送への変革(2006)
『大牟田』五万分一地形圖 【測量時期】 明治34年測圖/大正15年第二回修正測圖/昭和6年鐡道補入

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旧国鉄漆生線 https://rail-road.sakura.ne.jp/%e6%97%a7%e5%9b%bd%e9%89%84%e6%bc%86%e7%94%9f%e7%b7%9a/ Fri, 11 Dec 2020 11:50:53 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/?p=999 【国鉄漆生線の探訪概要】

【路線名】国鉄漆生線
【探訪日】2020年12月吉日
【探訪区間】下鴨生駅(福岡県嘉麻市)→下山田駅(福岡県嘉麻市)
【概要・歴史】
国鉄漆生線は、かつて後藤寺線の下鴨生駅(旧・赤坂駅)と上山田線の下山田駅(廃駅)を結んでいた国鉄の営業路線である。

距離 駅名 開業年 備考
0.0 赤坂 1916年
0.0 下鴨生 1956年 駅名改称
1.2 鴨生(貨) 1913年
1.2 鴨生 1920年 旅客扱い開始
3.6 漆生(貨) 1913年
3.6 漆生 1920年 旅客扱い開始
5.1 才田 1966年
6.2 嘉穂(信) 1966年
7.9 下山田 1903年 上山田線(廃線)接続

 

距離 駅名 開業年 備考
0.0 漆生 1920年 接続したのは1938年
1.0 稲築(貨) 1938年

【地図】Google Map

【国鉄漆生線の探訪記】


A地点
起点の下鴨生駅は、JR後藤寺線の駅である。漆生線は1番ホームから出発していた。


B地点
後藤寺線との分岐点。廃線跡はここから才田駅跡まで道路になっている。


C地点
鴨生駅跡は、鴨生駅跡公園として整備されていた。


D地点
山田川に架かる昭和橋の欄干に描かれているSLの絵


E地点
漆生駅の手前に数メートルだけ築堤が残る。


E地点
漆生駅跡は、漆生駅跡公園として整備されていた。


E地点
稲築(貨)への分岐地点


F地点
稲築(貨)跡は道路になり遺構はなくなっていた。


G地点
才田駅跡は当時のホームと駅舎が残っていた。


G地点
ホームと待合所の屋根が残っている。


G地点
ホームの横に国鉄マークの書かれた計器運搬箱が落ちていたが、野焼きのせいで中身は燃えて灰になっていた。1969と書いてあるのは1969年ということなのだろうか?


G地点
ここから道路は廃線跡と違うところを通っており、線路と築堤が完璧な状態で残されているが、整備されてないので藪がすごく今回は時間もないのでまたの機会に。


H地点
才田川に架かる第二才田川橋梁


I地点
道路を跨ぐコンクリート橋梁


J地点
用水路を跨ぐコンクリート橋梁
廃止から約35年も経っているのにまだコンクリートは真っ白である。


K地点
嘉穂信号場跡から漆生方面へ少し歩くとレールが残っている。


K地点
嘉穂信号場跡は道路になっており遺構はない。当信号場は上山田線と漆生線の分岐点であったが旅客案内上は下山田駅が分岐駅であった。


L地点
新原トンネル(全長74.4m)は、1898年に造られたがエネルギー革命に伴う石炭産業の衰退により沿線の人口が激減し、上山田線の全線廃止に伴い役目を終えた。


L地点
鉄道敷跡は、新たに道路として整備されることになり、新原トンネルも開削取り壊され道路敷きの一部となった。


M地点
下山田駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。漆生線と上山田線の分岐駅は当駅だったが全列車が上山田駅まで乗り入れていた。

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鹿児島本線 旧線(天拝山~原田)仮塚峠越え https://rail-road.sakura.ne.jp/%e9%b9%bf%e5%85%90%e5%b3%b6%e6%9c%ac%e7%b7%9a-%e6%97%a7%e7%b7%9a%ef%bc%88%e5%a4%a9%e6%8b%9d%e5%b1%b1%ef%bd%9e%e5%8e%9f%e7%94%b0%ef%bc%89%e4%bb%ae%e5%a1%9a%e5%b3%a0%e8%b6%8a%e3%81%88/ Tue, 30 Jun 2020 15:00:43 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/?p=4 【旧国鉄鹿児島本線(旧線)仮塚峠越えの探訪概要】

【路線名】旧国鉄鹿児島本線(旧線)仮塚峠越え

【探訪日】2020年5月吉日
【探訪区間】天拝山駅(福岡県筑紫野市)→原田駅(福岡県筑紫野市)
【概要・歴史】
旧国鉄鹿児島本線(旧線)仮塚峠越えは、かつて天拝山駅と原田駅を結んでいた国鉄の営業路線(開業時は九州鉄道)である。

【地図】Google Map

【鹿児島本線(旧線)の探訪記】


A地点
山口川に架かる針摺川橋梁の煉瓦橋台が2つ(複線分)残る。(左岸)


A地点
山口川に架かる針
川橋梁の煉瓦橋台が2つ(複線分)残る。(右岸)


B地点
石積橋台が残る。(天拝山駅側のみ)


C地点
旧線と現線との分岐地点。右の道路が旧線跡。


D地点
この橋は、当時の橋(橋台の一部が石積)か?(当時の橋かは不明)


E地点
城山三連橋梁」は、筑紫野市内に現存する鉄道遺産の中で最も大きく、国の登録有形文化財に登録されている。


E地点
開業当時の汽車風景(城山三連橋梁に設置されてる文化財説明板により)


E地点
城山三連橋梁に設置されてる文化財説明板
によると九州鉄道は、博多駅から千歳川仮駅(千歳川仮駅は筑後川右岸)の約35㎞の区間で開通し、片道1時間23分、6両編成で1日3往復していたことが分かる。


F地点
この橋は、当時の橋(橋台の一部が石積)か?(当時の橋かは不明)


G地点
旧線と現線との合流地点。左の道路が旧線跡。

ここは鉄道撮影地としても有名である。

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旧国鉄山野線(水俣→栗野) https://rail-road.sakura.ne.jp/%e6%97%a7%e5%9b%bd%e9%89%84%e5%b1%b1%e9%87%8e%e7%b7%9a%ef%bc%88%e6%b0%b4%e4%bf%a3%e2%86%92%e6%a0%97%e9%87%8e%ef%bc%89/ Sun, 31 May 2020 15:00:25 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/haisen/?p=215 【国鉄山野線の探訪概要】

【路線名】山野線
【探訪日】2020年1月吉日
【探訪区間】水俣駅(熊本県水俣市)→栗野駅(鹿児島県湧水町)
【概要・歴史】
国鉄山野線は、かつての鹿児島本線(現肥薩おれんじ鉄道)の水俣駅と肥薩線の栗野駅を結んでいた国鉄の営業路線である。

距離 駅名 開業年 備考
0.0 水俣 1926年 鹿児島本線(現肥薩おれんじ鉄道)接続
2.6 東水俣 1934年
6.3 深渡瀬 1934年 交換可能駅
14.3 久木野 1934年 交換可能駅
22.6 薩摩布計 1935年 交換可能駅
30.7 西山野 1935年 1945年~1947年休止
32.1 山野〔1〕 1921年 1935年移設
32.3 山野〔2〕 1935年 交換可能駅
34.1 郡山八幡 1965年
37.0 薩摩大口 1921年 交換可能駅
41.8 西菱刈 1938年
44.3 菱刈 1921年 交換可能駅
46.3 前目 1963年
49.1 湯之尾 1921年
51.7 稲葉崎 1959年
55.7 栗野 1903年 肥薩線接続

【地図】Google Map

【国鉄山野線の探訪記】


A地点
起点の水俣駅は、鹿児島本線(現肥薩おれんじ鉄道)の駅である。山野線は3番ホームから出発していた。


B-1地点
山野線専用のレールはここまで残っている。


B-2地点
廃線跡はここから久木野駅の手前まで「日本一長~い運動場」として整備されている。


C地点
湯出川橋梁はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


D地点
鹿児島本線(現肥薩おれんじ鉄道)との分岐点。


E地点
東水俣駅跡は「日本一長~い運動場」の休憩所となっている。建物は当時の物ではない。


E地点
ホームに続いていた階段は一部削られたものの残っている。


F地点
当時のキロポストが残っているが腐っていて何と書いてあったのかは分からない。


G地点
踏切?が残る。


H地点
水俣川橋梁はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


I地点
当時の鉄電用携帯電話機(鉄道電話)が残る。


J地点
6キロポストが残る。


K地点
肥後深川駅跡は休憩所になり脇に当時のホームと切り込み線が残る。


K地点
肥後深川駅のホームが残る。


L地点
深渡瀬駅跡は道路等になっているがわずかに当時のホームが残っていた。


N地点
宝川内川橋梁はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


O地点
勾配標の一部が残る。(写真右下)


P地点
第一久木野川橋梁はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


Q地点
第二久木野川橋梁はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


Q地点
橋梁の先に何かの跡があった。

R地点


S地点
久木野駅跡は当時を再現したホームや車掌車に腕木信号機等が展示されている。
当駅は「急行からくに」も停車する沿線の中核駅の一つであった。


S地点
愛林館の中にある当時の久木野駅スタンプ。愛林館では、棚田カードを配っていた。


T地点
廃線跡はここから県道と分かれ林道(藪になっているので今は使われてないと思われる)となる。


U地点
第三久木野川橋梁(菜ノ木橋梁)


U地点
橋の上には、まだ当時の枕木が残っている。


U地点
18キロポストが残る。


V地点
第一大川隧道 久木野駅側


V地点
山野線廃止後、大川ループ線付近では、九州キノコ研究所がバッテリーカーで山野線のレールを使いシメジを栽培していたようだ(現在は八代市にある会社が管理している)。


W地点
第一大川隧道 薩摩布計駅側


X地点
第二大川隧道 久木野駅側


Y地点
第二大川隧道 薩摩布計駅側


Z地点
下日平隧道 久木野駅側


a地点
下日平隧道 薩摩布計駅側


b地点
日平隧道 久木野駅側


c-1地点
日平隧道 薩摩布計駅側


c-2地点
当時の枕木が残る。


d地点
熊本県道15号線脇に巨大なコンクリート壁があった。


d地点
久木野~薩摩布計間のコンクリート壁の下にある旧国鉄時代の境界杭。


e-1地点
林道を立体交差していた部分の橋台は一部削られている。


e-2地点
久木野隧道 久木野駅側


f-1地点
久木野隧道 薩摩布計駅側


f-2地点
何かの箱の跡。中に何か入っている。


g地点
薩摩布計駅跡にはモニュメントがあり脇に当時のホームが残っている。


g地点
薩摩布計駅のホームが残る。


h地点
山野川を渡るコンクリート橋梁。


i地点
旧県道の布計踏切の踏切制御器が残る。


j地点
堂原隧道 薩摩布計駅側


k地点
堂原隧道 西山野駅側


l-1地点
曲線標が残る。


l-2地点
芝尾隧道 薩摩布計駅側


m-1地点
芝尾隧道 西山野駅側


m-2地点
簡易な境界杭か?


n地点
架空裸線路柱、通称「ハエたたき」(昔の電信柱や電柱のこと)が残る。


o地点
ここにも架空裸線路柱、通称「ハエたたき」(昔の電信柱や電柱のこと)が残る。


o地点
キロポストが残る。


o地点
レールでつくられた


o地点
当時の鉄電用携帯電話機(鉄道電話)が残る。


p地点
西山野駅跡は当時のホームが残っていた。


p地点
ホームの大口側の藪の中にSLの動輪らしき物が放置されていた。モニュメントにでもする計画があったのだろうか?


q地点
牛ノ河川橋りょう(十曽川橋梁)はガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


q地点
牛ノ河川橋りょう(十曽川橋梁)の脇に旧国鉄の境界杭が残る。


r地点
山野駅跡は鉄道公園として整備されていた。
当駅は「急行からくに」も停車する沿線の中核駅の一つであった。


r地点
鉄道公園内にある山野駅鉄道記念館。


s地点
牛尾川に架かるSLや客車のモニュメントが付いた山野線牛尾川橋。


t地点
郡山八幡駅跡は道路になっており遺構はない。(薩摩大口方から撮影)


u地点
薩摩大口駅跡は大口ふれあいセンターになっており中に大口歴史民俗鉄道記念資料館がある。又、屋外には車掌車や腕木信号機にポイント等が展示されている。尚、駅裏の貯木場からは間根ヶ平林用軌道が間根ヶ平の県境付近まであった。
当駅は「急行からくに」も停車する沿線の中核駅の一つであった。


u地点
屋外に展示されている車掌車や腕木信号機にポイント等。


u地点
駅裏の貯木場は大口元気こころ館等になっており遺構はない。


v地点
薩摩大口~西菱刈間の境界杭


w地点
薩摩大口~西菱刈間の境界杭


x地点
SLの煤煙による煤焼け。


y地点
西菱刈駅跡は道路になっており遺構はない。


z地点
菱刈駅跡は道路になっており遺構はないがA・コープの駐車場に駅跡を示す碑がある。
当駅は「急行からくに」も停車する沿線の中核駅の一つであった。


AA地点
廃線跡はここから県道と分かれ200m程、自転車・歩行者専用道路となる。


BB地点
前目駅跡は道路になっており遺構はない。


CC地点
廃線跡ここから再び自転車・歩行者専用道路となる。


DD地点
47キロポスト?が残る。


EE地点
山野線時代の電柱。


FF地点
ここから廃線跡は未舗装道路になっている。


GG地点
湯之尾駅跡は当時のホームや車掌車に踏切が、保存・展示されていた。


GG地点
湯之尾駅跡のホームが残る。


HH地点
ここから廃線跡は藪となる。


II地点
境川橋梁の橋台が残る。


JJ地点
架空裸線路柱、通称「ハエたたき」(昔の電信柱や電柱のこと)の基礎部分が残る。


KK地点
架空裸線路柱、通称「ハエたたき」(昔の電信柱や電柱のこと)が残る。


LL地点
稲葉崎駅跡は、歩行者・自転車専用道になっており遺構はない。


LL地点
廃線跡はここから川内川右岸まで「栗野町サイクリングロード」として整備されている。


MM地点
名称不明の川に架かる橋は、ガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


NN地点
名称不明の川に架かる橋は、ガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


OO地点
用水路に架かる橋は、ガーダ橋のまま舗装され通行できるようになっている。


PP地点
川内川手前で途切れる築堤の上には栗野町サイクリングロードの看板が立っていた。


QQ地点
川内川橋梁は撤去されているが橋脚の基礎部分が残っていた。


RR地点
川内川左岸の築堤に段違いで新旧2本の第一栗野橋梁が残っていた。 (手前側の橋梁は、旧国鉄山野線の物)


RR地点
川内川左岸の築堤に新旧2本の第一栗野橋梁が残っていた。 (手前側の橋台と橋脚は、山野軽便鉄道時代の物)


SS地点
肥薩線との合流地点


TT地点
丸池下川橋梁に山野線専用の橋台が残る。


UU地点
終点の栗野駅は、肥薩線の駅である。山野線は1番ホームから出発していた。


UU地点
栗野駅 1番ホーム


VV地点
昭和63年1月31日に廃線となった山野線廃止に伴い栗野町内(現 湧水町)の線路敷にあった枕木7000本を再利用した、栗野岳への登山道の途中にある展望台へと延びる階段です。左561段、右555段と枕木の数が異なりますが、枕木階段としては日本一。


VV地点
栗野岳パノラマ展望台からは、山野線沿線の栗野町(現 湧水町)や大口盆地が一望できる。

【主要参考文献】
・今尾恵介(編)『新・鉄道廃線跡を歩く5 四国・九州編』JTBパブリッシング(2010年)
・今尾恵介(監)『日本鉄道旅行地図帳12号 九州沖縄』新潮社(2009年)
・国土地理院地図

 

 

 

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旧国鉄矢部線(羽犬塚→黒木) https://rail-road.sakura.ne.jp/%e6%97%a7%e5%9b%bd%e9%89%84%e7%9f%a2%e9%83%a8%e7%b7%9a%ef%bc%88%e7%be%bd%e7%8a%ac%e5%a1%9a%e2%86%92%e9%bb%92%e6%9c%a8%ef%bc%89/ Thu, 30 Apr 2020 15:00:47 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/haisen/?p=139 【国鉄矢部線の探訪概要】

【路線名】矢部線
【探訪日】2020年1月吉日
【探訪区間】羽犬塚駅(福岡県筑後市)→黒木駅(福岡県八女市)
【概要・歴史】
国鉄矢部線は、かつて鹿児島本線の羽犬塚駅と黒木駅を結んでいた国鉄の営業路線である。

距離 駅名 開業年 備考
0.0 羽犬塚 1945年
1.5 花宗 1958年
3.9 鵜池 1945年
5.1 蒲原 1958年
6.8 筑後福島 1945年
8.0 今古賀 1958年
9.3 上妻 1945年
11.7 山内 1945年
15.2 北川内 1945年
19.7 黒木 1945年 当時使用されていたSLが展示されている

【地図】Google Map

【国鉄矢部線の探訪記】


A地点
起点の羽犬塚駅は、JR鹿児島本線の駅である。矢部線は0番ホームから出発していたようだ。


B地点
当時の橋台が確認できる。


C地点
廃線は高架の下を通っている。


D地点
羽犬塚駅~花宗駅間の旧国鉄時代の境界杭。


D地点
羽犬塚駅~花宗駅間の旧国鉄時代の境界杭(拡大)


E地点
国道209号線との交差部分。つい最近までは当時のアンダーパスが残っていた。廃線跡はここから上山内交差点まで「ハルビゾンの道」となっている。


F地点
花宗駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。


G地点
鵜池駅跡も道路になり遺構はなくなっていた。


G地点
鵜池駅跡付近にある農業倉庫跡。


H地点
蒲原駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。


I地点
八女福島のトンネル藤 全長510m


I地点
筑後福島駅跡は鉄道記念公園として整備されていた。


J地点
羽犬塚駅~花宗駅間の旧国鉄時代の境界杭。


K地点
今古賀駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。


L地点
上妻駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。


M地点
山内駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。 尚、「ハルビゾンの道」は、次の上山内交差点まで


N地点
ここから廃線跡は県道と分かれ未舗装道路となる。


O地点
13.5キロポストが残る。


P地点
廃線跡は矢部川に沿って進む。


Q地点
長野隧道 山内駅側


R地点
長野隧道 北川内駅側


S地点
長野トンネルを出てすぐにあるコンクリート橋梁。


T地点
14キロポストが残る。


U地点
山内駅と北川内駅間の廃線跡。
線路脇には石仏がある。


W地点
北川内トンネルの手前に数十mほど築堤が残っている。


W地点
北川内隧道 北川内駅側


X地点
北川内隧道 黒木駅側
北川内隧道へのルートは地面が泥々で長靴が無いと近づけない状態だ。


Y地点
中原隧道 北川内駅側
中原隧道は「隧道古酒 須々許里」となっており、中では酒が貯蔵・熟成されている。


Z地点
中原隧道 黒木駅側


a地点
黒木駅跡は当時を再現した駅名標が残っている。


a地点
黒木駅跡に展示してあるC11形蒸気機関車。


b地点
「駅前まんじゅう」の店内には、当時の運賃表等が保存されている。


c地点
黒木の大藤

【参考文献】
・今尾恵介(編)『新・鉄道廃線跡を歩く5 四国・九州編』JTBパブリッシング(2010年)
・今尾恵介(監)『日本鉄道旅行地図帳12号 九州沖縄』新潮社(2009年)

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旧国鉄佐賀線(佐賀→瀬高) https://rail-road.sakura.ne.jp/%e6%97%a7%e5%9b%bd%e9%89%84%e4%bd%90%e8%b3%80%e7%b7%9a%ef%bc%88%e4%bd%90%e8%b3%80%e2%86%92%e7%80%ac%e9%ab%98%ef%bc%89/ Sat, 25 Jan 2020 15:00:33 +0000 http://rail-road.sakura.ne.jp/haisen/?p=6 【国鉄佐賀線の探訪概要】

【路線名】国鉄佐賀線
【探訪日】2020年1月吉日
【探訪区間】佐賀駅(佐賀県佐賀市)→瀬高駅(福岡県みやま市)
【概要・歴史】
国鉄佐賀線は、かつて長崎本線の佐賀駅と鹿児島本線の瀬高駅(旧・矢部川駅)を結んでいた国鉄の営業路線である。

距離 駅名 開業年 備考
0.1 佐賀(旧) 1891年 1976年移設
0 佐賀(現) 1976年 長崎本線接続
2.3 東佐賀 1939年
4.0 南佐賀 1935年
5.5 光法 1938年 1944年~1947年休止
7.8 諸富 1935年 交換可能駅
9.0 筑後川(信) 1936年 可動式橋桁の制御施設
9.3 筑後若津 1938年
10.1 筑後大川 1933年 交換可能駅
12.6 東大川 1956年
15.5 筑後柳河 1931年 交換可能駅
18.8 百町 1937年 1944年~1947年休止
20.1 三橋 1931年
24.1 矢部川 1891年 駅名改称
24.1 瀬高町 1942年 駅名改称
24.1 瀬高 1956年 鹿児島本線接続

【地図】Google Map

【国鉄佐賀線の探訪記】


A地点
佐賀駅は、JR長崎本線の駅である。佐賀線の開通当初は100mほど南にあったが1976年の佐賀駅の高架化に伴い現在の場所に移転した。


A地点
佐賀駅の1番線には佐賀線の佐賀駅折り返し列車が利用していた切り込み線が残っているがレールは撤去されている。


B地点
長崎本線との分岐点付近は現在でも高架が残っている。


B地点
高架は途中で切れている。


B地点
第二大溝川橋りょうの銘板。当時の様子が分かる。


C地点
旧佐賀駅に向かう旧線の橋台。
付近にはもう1箇所橋台があるがそれは長崎本線旧線のものである。


C地点
旧佐賀駅に向かう旧線のコンクリート橋


D地点
佐賀駅~東佐賀駅間の旧国鉄時代の境界溝


E地点
佐賀駅~東佐賀駅間の旧国鉄時代の境界溝と境界杭


E地点
佐賀駅~東佐賀駅間の旧国鉄時代の境界溝と境界杭(拡大)


F地点
東佐賀駅跡は道路になり遺構はなくなっていた。


G地点
八田江川にかかるSLのモニュメントが付いた佐賀線偲橋。


H地点
廃線跡はここから昇開橋まで「徐福サイクルロード」として整備されている。


H地点
現地にあったサイクリングロードの案内板。


H地点
南佐賀駅跡は当時のホームと駅舎が残っており、周辺一帯は南佐賀公園として整備されている。


H地点
当時の時刻表が今でも掲示されている。


I地点
光法駅跡にもホームが残されている。


J地点
諸富駅跡は諸富文化体育館が立てられていて遺構は残っていないが、諸富鉄橋展望公園に諸富駅の駅名板を再現したものが立っている。


K地点
諸富鉄橋展望公園にある諸富駅の駅名板。


L地点
筑後川昇開橋(筑後川橋梁)は、可動橋である。


L地点
筑後川昇開橋(筑後川橋梁)の可動部分。


L地点
筑後川昇開橋(筑後川橋梁)にある船専用の信号。


L地点
筑後川昇開橋(筑後川橋梁)の操作盤。


L地点
筑後川昇開橋(筑後川橋梁)のライトアップ。


M地点
筑後若津駅跡は、筑後川昇開橋展望公園として整備されていた。


M地点
廃線跡はここから花宗川まで「DESIGN PROMENADE」という名の遊歩道になっており、所々に芸術作品が展示されていた。


N地点
筑後大川駅跡は道路になっており遺構はないが、ハローワークの横に駅跡を示すモニュメントがある。
当駅は「急行ちくご」も停車する沿線の中核駅の一つであった。


O地点
高架となっている有明沿岸道路の下に当時のコンクリート橋が2ヶ所確認できた。


P地点
東大川駅跡は有明沿岸道路の大川東ICになっており遺構はないが駅跡を示す看板がある。


Q地点
クリークにかかる橋は未舗装道路として現在も利用されている。


R地点
東大川駅~筑後柳河駅間にあるキロポスト。


S地点
東大川駅~筑後柳河間の旧国鉄時代の境界溝。


T地点
筑後大川駅跡方面を望む。


T地点
髙橋踏切には当時の制御盤が残されていた。


T地点
制御盤は東邦電機工業で昭和49年5月に作られたものである。


U地点
筑後柳河駅はYou・遊の森公園となっており遺構はない。
当駅は「急行ちくご」も停車する沿線の中核駅の一つであった。

U地点
かつては「むつごろうランド」にホーム上屋が移設され残っていたが公園の再整備事業に伴い現在は解体撤去されている。


U地点
筑後柳河駅を出てすぐにある旧国鉄時代の境界溝。


V地点
筑後柳河駅~百町駅間の廃線跡。


W地点
百町駅跡は県道になっており遺構はないが道路の脇に駅跡を示す石碑がある。


X地点
三橋駅跡は県道になっており遺構はないが道路の脇に駅跡を示す石碑がある。


Y地点
三橋駅寄りの矢部川右岸に築堤が100mほど残っている。


Z地点
矢部川橋梁は大和堰のすぐ隣を通っていたが痕跡は全く無かった。


a地点
以前はここにレールが残っていたが現在は道路が整備されて確認できない。


b地点
旧レンガ工場(現グループホーム慈久園)の裏手に当時の鉄橋が残っている。


c地点
現瀬高駅は、1942年までは矢部川駅という名称であった。瀬高駅は熊本県の高瀬駅(現玉名駅)と混同しないようにするため段階的に駅名改称し、矢部川駅→瀬高町駅→瀬高駅と名を変えたのであった。

【参考文献】
・宮脇俊三(著) 今尾恵介(編)『新・鉄道廃線跡を歩く5 四国・九州編』JTBパブリッシング(2010年)
・今尾恵介(監)『日本鉄道旅行地図帳12号 九州沖縄』新潮社(2009年)

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